Sun*共同創業者が語る!教育事業部の創業ストーリー 前編

『僕ぐらいのレベルなら大学の後輩にたくさんいますよ』
ポロッと言った彼の言葉には本当に驚きました。

Xin chào các bạn(こんにちはみなさん)!Sun*教育事業部の越本です。
今回もご覧いただき、ありがとうございます。
これまで当ブログでは、弊社の取り組み(グローバルで教育事業)や、現場で働く教師、そして授業での実践など数多くのトピックを取り上げてきました。
この記事から弊社を知っていただいた方は『Sun*=教育会社』と思っている方もいるかもしれませんが、私たちは開発会社としてスタートしています。
なぜIT企業であるSun*が教育事業を行うに至ったのか、そんなわたしたちの原点とも言えるストーリーを前後編でご紹介したいと思います。

この記事を書くにあたり、Sun*のCo-Founderの藤本にインタビューを実施しました。藤本いわく、教育事業に参入するという当時の決断は”クレイジー”だったとか。今回は、教育事業の誕生秘話に迫ります。

(今回のインタビューに協力してくださった方)
藤本 一成(かずなり)上智大学経済学部経営学科を卒業後、安田火災海上保険株式会社(現:損害保険ジャパン日本興亜株式会社)に入社その後、外資系ソフトウェアベンダー、IT広告代理店を経て、中古車買い取り輸出会社を創設これからの世界における「ベトナムに可能性」を感じ2010年に裸一貫でベトナムに移住し、ベトナムのIT企業の社長に就任。その後、2012年にSun*(旧Framgia)を取締役の平井らと共に共同創業し、現在の教育事業部を設立。現在は、教育事業拡大のため他国のトップ大学との提携交渉を担当。

ハノイ工科大学を知ったきっかけはなんですか?

私は、Framgiaを立ち上げる前からベトナムに来ていて、某日系のIT開発会社のベトナム支社の現地社長をしていたので、ある程度ベトナムの採用に知見がありました。
当時の会社もオフショアや受託開発をメインにしていました。ソフトウェア開発事業をグロースするためには、兎にも角にもまずはエンジニアの確保、つまり優秀な人材の採用が必要不可欠なんです。
ベトナムで一番優秀な大学はどこか といえば、10人中10人がハノイ工科大学と答えます。なので採用活動の中でもハノイ工科大学出身の学生を狙って採用してたんですよね。

なるほど、最初は採用目的だったんですね。

そうですね。日本に帰国する際とかも、現地のスタッフに「日本で働いているベトナム人のエンジニアが友達にいないか」をスタッフに聞いて、日本に帰った際に口説く みたいなこともしてました(笑)
そんな感じで紹介してもらって人脈を広げていたんですが、あるとき日本に帰国した際に、日本に留学中のベトナム人学生に会ったんです。
話を聞いてみると、ハノイ工科大学のIT学部、現在は交換留学で日本に来ているとのことでした。これが僕がHEDSPIコースを知ったきっかけでした。

*HEDSPIコース*

2006年から2014年まで日本のODAプロジェクトとしてJICA(独立行政法人国際協力機構)とハノイ工科大学IT学部が設立したコース。
日本のマーケットに対応したIT 技術者の養成プロジェクトであり、3年間の日本語教育でN3取得を目指し、4年生と5年生の2年間は日本のITエンジニアによる実践IT教育を行うというもの。当時コースのトップ10 – 15%の学生は、4年生時から2年間、工科大学と提携している慶應大学、立命館、名古屋大学、会津大学などに交換留学をしていた。

当時行われたHEDSPIセミナーの様子
Framgia設立当初の藤本さん

これは本当にすばらしいプロジェクトで、トップ大学にいる優秀なITエンジニアの卵たちに日本語と実践IT授業を勉強してもらい、日本就職を目指すことで日本のITエンジニア不足を解消しようというものでした。
2012年にFramgiaを設立した際には、このコースで交換留学しているにいっている学生を中心に採用を実施しました。今でも弊社は、その時に採用したメンバーが中心となって活躍してくれています。
HEDSPIの留学メンバーを開発体制の中心にして立ち上げたのがスタートした会社でしたが、一緒に働いてみると本当に彼らが優秀で驚きました。おまけに日本語でのコミュニケーションもできる。これはどんどん採用していかないとって思いましたよね。

感心したハノイ工科大学生のレベルとは?

具体的なハノイ工科大学の卒業生のぶっ飛んだエピソードを話しましょうか。
これはうちにHEDSPIの運営サポートの話が来る前に、HEDSPI卒業生を採用したときの話です。
弊社がある大手書店のグローバルECサイトの開発を複数の企業と共同で開発するというプロジェクトを受注した時の話です。
そのECサイトはアラビア語など含めた8言語対応のサイトで、クライアントの意向で開発言語はRubyを使うことになっていました。
今思えば、そんなに複雑なものをRubyで作るべきじゃなかったのかもしれませんが、当時はクライアントの意向もあってそのように進めました。
当時そのプロジェクトの開発チームのメンバーのひとりに、HEDSPIコース出身の新卒1年目の子をアサインしました。
彼はそれまでRubyを使ったことがなかったんですが、まぁ飲み込みも早そうだし他の先輩メンバーのサポートもあるからアサインしたんです。何よりやる気もあって日本語も英語も上手だったのでいけるだろうと。


ただ実際にプロジェクトを進めていくと、やはりRubyではどうにもならない問題が多く発生し、他の開発会社はもちろん、発注元のエンジニア自身も匙を投げることもありました。でも驚くことにうちのそのエンジニアは、自分でゴリゴリRubyを勉強していって、だいたい次の日には「できましたよ」と言って解決してくるんですよ(笑)
しかも、あとになってこのプロジェクトがRubyのカンファレンスで賞をとり、Ruby業界の発展に貢献したと認められたんです。クライアント先の社長がスピーチでその学生を名指しでベタ褒め。めちゃくちゃ誇らしかったです。
結局、フタをあけてみれば、難しいところはほとんど彼が作成しており、しかも新卒1年目の子ということで、全員が度肝を抜かれた出来事でした。
本当にギャグ漫画みたいにズバ抜けたことを成し遂げる子で、他にも伝説はいろいろあるんですが、そんな彼が

『僕ぐらいのレベルなら大学の後輩にたくさんいますよ』

ってポロッと言ったんですね。
それからですね。ハノイ工科大学の学生の採用をより注力しだしたのは。

本当にマンガみたいなお話ですね…。採用はどのように注力されたんですか?

採用を有利に進めていくために、なんとか大学とコネクションを持てないかなぁとずっと思案していました。やり方はほんとにゲリラ的でしたね。
大学をうろちょろしてみたり、知り合いづてにハノイ工科大学で働く先生などをご紹介してもらって、なんとかIT学部で働く先生に繋がってみたり。
色々と動いてみると、当時のハノイ工科大学のHEDSPIプロジェクトのキーマンだった先生がわかってきました。そこでどうにかしてその先生と知り合いたい、接点を持ちたいなと思っていましたね。
そこで行ったのは、「三河屋のさぶちゃん作戦」です。

・・・サブちゃん作戦?

ほら、アニメのサザエさんで「三河屋のサブちゃん」っているじゃないですか。
サザエさんちの裏の勝手口から「ちわーっ、三河屋でーす」って時折、用もないのに来て、声をかけて必要なもの受注していく。まさに、そのスタイルですね。
その先生が授業の終わるタイミングを見計らって大学をうろちょろして、先生がいたら偶然をよそおってばったり会ったり…。
僕が日本に一時帰国したときには、毎回お土産を買っていって大学に行ってお茶に誘ったり…とにかく接点を持つために色々しました。
採用目的で行っていた作戦ですが、その甲斐もあって、その先生とは純粋に親しい友人になれて、今でも頻繁に連絡をとりあっています。

当時を振り返る藤本さん

サブちゃんは用があって(仕事として)言っているのかと思いますが(汗)
なぜそこから教育事業の立ち上げにつながったんですか?

大学がパートナーとなる民間企業を募集していたんですよ。
うち以外にもいくつかのIT企業にその相談をしていたみたいです。
HEDSPIは、JICAとハノイ工科大学大学の国家プロジェクト。当然、プロジェクトには予算と期限がありました。2014年にJICAのプロジェクトが終了し、JICAから派遣されていた日本語教師とITを教えていたエンジニアが日本に帰国しました。

大学のこのコースをそれまでどおり運営しようすると、独自に教師を雇用することなりますが、日本人なので当然、コストが高くかかります。
特に、IT教師はエンジニアとしての開発経験が必要です。採用するにしても人件費は日本語教師より高いし、そもそもITエンジニアからベトナムで先生をやるって人はそもそもほとんど見つかりません。
大学は、引き続き教育を行うために協力してくれる企業を当時必死に探していたようです。4年生と5年生の2学年にIT科目を教えるための教師、フルタイムで現役シニアエンジニアをアサインしてほしい。そんな依頼がうちにも来たんです。

当時の日系IT企業は今ほど数もないし、従業員規模もそこまで大きくありませんでした。大きい会社でも社員数は多くて200名程度の規模とかでした。
そしてほとんどの会社では、日本人のエンジニアは一人か二人いるのが一般的でした。その一人をフルタイムで大学にアサインするという決断はどの企業も普通はしませんよね。
大学からの提示条件は、完全ボランティアではなかったものの、フルタイムでアサインしても報酬は数百ドル程度のもの。

『ハノイ工科大学のあの依頼はヤバい…』

当時はそんな噂が日系企業の間であったほどです。

なるほど。その条件だとほとんどの企業が弱腰になると思うんですが、他に、立候補した企業はあったんですか?

実はうち以外にも、ベトナムの人材ポテンシャルに気づいている企業がありました。その企業もHEDSPIプロジェクトのサポートに名乗りをあげていたんですよ。
しかも、教師の人件費は全て企業持ち、コンピューターやタブレットなど必要な機材などは全て会社負担で支援する、と。
でも条件がありました。

“日本語でなく韓国語を教えること”

そう、その会社は日系企業ではなく韓国のある大企業だったのです。
大学からすると経済的にはこの上ない嬉しい話だったと思います。
でも、今まで8年間やってきたコースを経済的側面だけで、韓国語にシフトするのはもったいない。なにより日本に興味があって、今まで日本語を勉強していた学生に、急に韓国語の勉強にシフトさせるのはあまりにもかわいそうだと大学も頭を悩ませていたようです。

そうなんですね。さすが韓国企業。その辺の動きは俊敏ですね。
藤本さんは、なぜそのオファーを受けるようと思ったんですか?

まず純粋に、ベトナムに貢献できると思いました。
ベトナムで働いているからこそ、その国への貢献をしたいというのが根底です。

ベトナム、ハノイのオフィスにて

もちろん会社として、かなりリスクもありましたよ。
本業もあるのにこの教育事業に注力すべきなのかという意見もありました。
今でこそ、Sun*は1500人のメンバーが働く企業となりましたが、当時はうちは設立して2年ちょっと。規模も50名位でしたから。はっきり言って日本人エンジニアをほぼボランティアでフルタイムのような形で派遣できる余裕はなかった。
HEDSPIプロジェクトは、ズバ抜けて優秀な人材を輩出しています。
彼らは「日本のIT人材不足を埋める」というだけの存在ではなく、ベトナムの発展はもちろん、日本のIT産業の発展に直接貢献できるような可能性を秘めた存在なんです。

それを、日本の税金を使いJICAが心血を注いだからこそ、ここまで構築されたプロジェクトなんです。日本人として、そんなプロジェクトをここで終わらせてはいけない と思いましたね。
経営陣でも幾度となく話し合いを重ねて、大きな赤字にはしないようにするけど、とにかく続けようということで会社としての答えを出しました。

後編へ続く…

いかがでしたか?ベンチャー企業独特の、泥臭さや熱さ、そしてご縁の大切さを感じるお話でした。きれいに正しく進めるよりも、泥臭く一歩でも着実にアクションをすることが結果につながる ということを再認識でき、改めて自分たちのあり方を見直すきっかけとなるお話を聞くことができました。
次回、後編ではHEDSPIプロジェクトのサポートを開始した当初のお話に迫ります。皆様、お楽しみに!!

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